遺してくれたもの

─元気か?ちゃんと食えているか?─

 

10月15日、池田晃太郎さんが亡くなられた。享年68歳。

ワーナーミュージックで多くのアーティストの制作を担当され、近年はmusic.jpを運営するMTIに籍を置いた生粋の業界人でした。

僕にとって業界人とかそういったものを超えた、育ての親でした。

 

 

初めて出会った事を今でもはっきり憶えています。

2001年の秋、渋谷南平台交差点のデニーズ。立地の良さから芸能関係者がこぞってミーティングに使う場所。広告代理店に務めていた僕が絶対に立ち寄らない、立ち寄りたくない店での待ち合わせ。親しくしていたフルフェイス音楽事務所のマネージャー・西岡さんからの紹介でした。
店内の中程に西岡さんと並んで座る、その遠目からの印象は「とってもヤクザ」でした。あぁ遂に音楽業界の深部に触れてしまったか自分、と。着席して挨拶も程々に、強い関西弁で語られた第一声は

 

「お前、オモロイ音楽やな」

 

心の中で「ヒッ!」となりました。そして矢継ぎ早に質問責めに遭いました。

 

「お前のこういう音楽、DTM言うんか?エレクトロニカ?PCで一人で全部作るんか?カラオケちゃうな?オタクやな?これをライヴハウスでやるんか?なんでや?」

 

気になったことは歯に衣着せずズバズバと質問してくるその方は終始ニコニコしていて、いつのまにか僕も安心して会話をしていました。人は外見によらない。

 

「お前サラリーマンか。それでこんなによく活動できるな。代理店だけ勤めとるほうが儲かるやろ。そりゃプロとか興味ないわな。プロなったら儲け減るで。音楽やりたいんやな。変わった奴やなお前。」

 

当時の僕は一部の「プロを目指す人たち」から批判をされていました。社会人をしながら音楽をしているだけで「アイツは本気じゃない」とか「逃げ道を用意している」とか散々な言われようでした。そんなピリピリした状況での「とても気さくな業界人の気さくな発言」に、僕はとても救われました。 ほぼ一方的な質問が続いた後、

 

「よし、おっちゃんこれからお前のこと手伝うんで、判らんこと有ったらいつでも電話な。」

 

 

当時の僕は収入も安定しているし、何より音楽がやりたい、ライヴがしたい、その気持ちだけの人間でした。なにより「宣伝すること」に対して強烈な嫌悪感で満たされていました。因果というか皮肉なのもので、職業上「知りすぎてしまった」事からの嫌悪です。当然の事ながら「音楽で食べていきたい」なんて口にしたこと有りませんでした。ヘタに収入が有るので、音楽活動がマネタイズ化されなくても良かったのです。好きなことが出来れば良い。よってメジャーにも興味が無い。でも心の中では、可能であれば、好きな事を生業として生きていけるなら、それは幸福なんだろうと考えていました。絶望的にひねくれてます。 でも池田さんは、少しでもマネタイズ化する道のりを提案して下さいました。いま考えると、なんでこんなスレてひねくれた小生意気なガキを気にいってくれたんでしょう。

 

 

その日から、池田さんはジェッジジョンソンの保護者になってくれました。インディーでリリースする時は、池田さんが全て窓口になってくれました。自らは儲けや配分なんて一切考えず、売れた金額そのままが池田さんから口座に入金されました。

 

「将来レクサス買うてくれやワハハハ」
と電話越しにいつも仰られてました。

 

 

2004年、ジェッジと僕の未来を大きく変えるアルバム「デプス・オブ・レイヤーズ」シリーズの発売に際しては、本当になんとお礼を言っていいのか判らないくらい尽力してくださいました。リリース元のUKプロジェクトと連携して、陰から手伝って下さいました。インディーズのアルバムなのに出版社を取り付けて下さいました。著作権周りも全て池田さんが担当して下さいました。今でも毎年四半期ごとに印税が入ってきます。それも全て池田さんのお陰です。

 

 

2005年、親友の死をきっかけに僕は、代理店を辞めて音楽だけで生きていこうと決めました。真っ先に相談したのが池田さんでした。池田さんはいつもと変わらずニコニコしながら僕に

 

「どうでもええねん、食えたらええねん」
「好きなこと出来るのが1番ええねん。違うか?」

 

と。あれこれ相談を重ねるうち、僕はひとつの結論に達して行動に移しました。代理店を辞めた、と思ったら大手ゲーム会社に転職するというアレです。音楽に一本化する為に退職するはずがゲーム会社に転職という、周囲の誰もが首を傾げた出来事は、池田さんにあれこれ相談してるうちに「ある意味、冷静になった」からだと思います。

 

 

2006年、池田さんから紹介して頂いたメーカーの方を経由し、音楽事務所に所属することになりました。音楽で生きていく準備が全て整いました。これも全て池田さんから始まった御縁でした。

 

「お返しに今度、きれいなお姉ちゃん紹介しやワハハハ」

 

と、食事会の度に仰られてました。その食事会もなんだかんだで全て奢って頂きました。一度くらいは「音楽で稼いだお金」でお返しをしたかったのですが

 

「大丈夫か?食えてるんか?」

 

と仰られ、その度に奢ってくださいました。新宿オペラシティの中の「高いお店」は大体連れて行って貰いました。有難うございました。

 

 

ワンマンの度に足を運んで下さいました。リリースの度に食事に連れて行って下さいました。

 

 

僕が病気で休養している時も、歌えずライヴすら出来ない時も、作曲の仕事を紹介して下さったのは池田さんでした。海外アニメの仕事も、アパレルの仕事も、ボーカロイドの案件も、紹介してくださったのは全て池田さんでした。こうして僕の「覆面」が生まれました。

 

ジェッジに固執する余り、身動きの取れない僕にいろんな可能性を提示して、与えて下さったのも池田さんでした。 頂く電話も、打ち合わせで新宿オペラシティの椿屋珈琲店で会う時も、冒頭は決まって

 

「どうや調子は。食えてるんか?」

 

と心配して下さいました。今日僕が音楽で生きているのは、全て池田さんのお陰です。

 

 

新宿オペラシティの中華料理店でボーカロイドのアルバム制作担当を紹介して下さった際に、最近体調が優れず入院してたと笑いながら仰られていました。その時は全く深刻な様子も無く、快復されたと思っていました。

 

 

先月9月23日、アルバムリリースの御報告の電話をしました。珍しくコール音が10回以上鳴らしても電話に出られませんでした。暫く鳴らして、とても衰弱した声が聴こえました。池田さんとは想像も出来ない、弱々しい声でした。

 

「入院しとんねん、今」

 

お見舞いに伺いますと伝えると、大したこと無いから来んでええと。
リリースしますと伝えたら

 

「よっしゃ。良かったなぁ」

 

と仰って下さいました。

 

「出たらまた、ごはん行こうな」
と仰って下さいました。

 

それが最期の会話でした。

 

 

 

10月15日の夜、普段は連絡を取らない人物から着信が有りました。
その着信の時点で何が有ったのか、察しました。

電話を取ってひとこと、「池田さんか」と尋ねました。

「はい」と返事が帰ってきました。

池田さんの携帯に電話をしてみました。電話に出られたのは奥様でした。最近の事、少しだけ教えて頂きました。実感は湧きませんでした。正直、僕より先に逝かれてしまったという、その事実も把握出来ませんでした。
関係者に連絡を回しました。判る限り、可能な範囲で連絡をしました。 紹介して下さった西岡さんに、僕から連絡をしました。 これも何かの因果かなと思いました。

 

 

 

お通夜には多くの業界関係者からの献花が寄せられていました。仏壇には多くの著名人の名前が並んでいました。その時に初めて、この人がどれだけの業界人だったのか認識しました。どれだけ守ってくれていたのか、どれだけ守られていたのか、改めて気づきました。それでも変わらず、まるで友達のように接して下さった事、有難うございました。

告別式は平日ということも有って参列は難しい筈なのですが、とても多くの方々が最期のお別れに、見送りの為に集まっていました。ここにいる方々は、みんな池田さんに育てられた子どもたちなのでしょう。僕も含め仕事も生活も有りますが、その仕事も生活も池田さんの助力があったからこそ成り立っています。

 

出棺の時が近づいてきました。
他の方々と一緒に、棺の中に菊を二輪、献花をしました。
いつもよりちょっと痩せた池田さんが眠っておられました。
「これがお別れで、最期に会う時間なんだ」と実感しました。
泣き過ぎて声が出せない、出しているつもりが出せませんでした。

でも頑張って「育ててくれて、本当に有難うございました」と伝えました。

霊柩車に運ばれて、見えなくなるまでずっと手を合わせました。
僕を育てた方を、最期まで見送りました。

 

 

 

今日も音楽制作の日々です。
ふとした時、池田さんを思い出して
「あぁ、ほんとにいなくなっちゃったんだなぁ」と。
そしてまたPCを見つめています。

 

遺してくれたものはとても大きく、
大事にして、いまを生きてます。 そして明日も、作品を作っていきます。